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藤の屋文具店

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第十一章 鎖を断て



【神へ】

第十一章

鎖を断て


深夜の研究室、敷島博士と大谷祐子が珍しく言い合いをしている。
沈着冷静な、どこかしら人間離れしたふたりが、誰も見た事のない
ような熱い調子で議論するのを、亜理沙と美保子が心配そうに見守
っている。

「・・・・だから、シードラゴンがヒドラの天敵として設定された
進化コースを加速しているのは解ったわよ」
「じゃあ、あの細胞を授精卵に仕立て上げて、クローニングで最終
形態まで育て上げてくれればヒドラは倒せるじゃないか」
「わたしは・・・・わたしは嫌」
「なぜだ、ヒドラを倒すにはそれが一番の方法じゃないか」
「あなたのしようとしている事は、私たちの命をもて遊ぶ造物主と
やらと、おんなじじゃない!」
「・・・・・・・・・・・・・」
「わたしたちは、実験の道具じゃないわ。怒りも、泣きも、笑いも
する、心のある人間なのよ! 神でも悪魔でも、喧嘩したけりゃ自
分達同士で気の済むまでやればいいのよ、どうして・・・どうして
私たちがこんな目にあわなくっちゃいけないの?」
「現実にヒドラが存在する以上、我々はあの怪物を倒さねばならな
い。人類にだって、生き延びる権利があるはずだ」
「そうよ、あなたの言う事はいつだって正しいわ、でもね・・・・
・・わたしは嫌よ、シードラゴンを育てて、ヒドラと戦わせて、そ
してどうするの? 勝っても負けても、シードラゴンは邪魔ものに
なっちゃうんじゃない!!」
「それは・・・・」
「嫌よ、わたしは嫌! ちゃんとした意識のある生き物を道具のよ
うに扱って、用がなくなれば処分しちゃうなんて、そんな・・・そ
んな残酷な事は許せないの」
「しかし、こうしている間にも、どこで犠牲者がでるか・・・」
「わかっているわよ!」
「今の我々に必要な事は、被害を食い止める事だ。殺されていく人
たちに向かって、そのセリフを言えるのか?」
「あなたには、道具のように利用される生き物の気持ちがわからな
いのよ! 自分の研究のためになら、どんな事でも平気でやるんだ
わ。ほんとは、シードラゴンの最終形態が見たいだけでしょ?」

「・・・君にだけは、そんな事を言われたくなかったよ・・・」
敷島博士が、静かな口調でぽつりと言った。

「・・・・ごめんなさい、言い過ぎたわ」
祐子が、はっとした顔で詫びた。

沈黙が二人を包んだ。コーヒーメーカーがときおり立てるジュッ
という音だけが、時を刻む。
亜理沙と美保子は、魅入られたように二人を見つめている。

祐子が沈黙を破った。
その顔はいつもの、冷静な科学者の顔になっている。

「バチルス・ラジアノイドを退治しましょう。そうすれば、ヒドラ
を解体できます」
「・・・バクテリオ・ファージみたいな奴を造って、ヒドラに注射
するわけか」
「そう、ヒドラのリンパ細胞に抗体を仕込んでやれば可能よ」

美保子が、突然思いだしたように祐子に訊ねた。
「ねえ、どうしてあのバチルスは深海にしかいないんですか?」
祐子が答える。
「深海性の海洋細菌に、そのDNAを滑り込ませて潜伏していたら
しくて、ナトリウムドライブがネックになって海中にしか分布でき
ないのよ、今のところは」
美保子がふたたび質問する。
「すみません、そのナトリウムドライブってなんですか?」
亜理沙が補足する。
「細胞のエネルギー源であるATPを還元するのに、海水中のナト
リウムイオンを使い捨てにする代謝系の事なの。だから、海水中で
しか生存できないの」
「じゃ、陸上の生物は大丈夫なんですか?」
「いいえ、私たちの体の中にも、海はあるのよ・・・」

・・・・そうだ、我々は海から抜け出したのではない。我々の偉
大な祖先は、海を我々の皮膚の下にくみ取ったまま陸上に進撃を開
始し、親から子、子から孫へと、原始の海の水を絶える事なく受け
継いで今日に至っているのだ。
今、我々の身体の中を流れる海は、ひとつひとつは隔離されては
いるが、基を正せば何百万年前、いや何千万年前の太古の海の支流
のひとつであるのだ。
そして今、我々は海の水を抱いたまま、水瓶の外の虚無の空間に
さえ進出しようとしている。
人類は今、どこへ向かおうとしているのか? 暖かい海を、大地
を、その優しい誘惑から振りほどいてまでも、死と孤独の待ち受け
る危険きわまりない虚無の空間に駆り立てるものは一体何だろう?
あたかも、未知の世界の果てに、自分達を待ち受ける存在がある
かのように突き進み、全ての事象を知ろうと走り続ける。
この、知る事に対するどん欲な衝動は、一体どこに起因している
のだろう?
まあいい、それが我々を創りたもうた存在の思うつぼであったと
しても、我々は知りたいと思った事を素直に探る事にしよう・・

敷島博士は、ゆっくりと顔を上げた。

「しかし、あのバチルスの繁殖システムからすると、陸上動物に影
響がでるのは、そう先の事ではないな」
「はい、恐らくはわれわれも、われわれの遺伝子に記載されている
進化コースの次のステップに、むりやり進められるのでしょう」
「わたしは、進化した人類とやらに興味があるよ」
「・・・わたしは嫌です! わたしたちを実験の道具のように扱う
なんて、許せません」
「しかし・・・、君のその嫌悪感は、自分が進化の過程の一里塚に
過ぎない事に対するただのセンチメンタリズムではないのか?」
言い終わってから、しまったという顔をして、博士は祐子の顔を
ちらと見た。祐子は、博士の表情を読みとって、にこりと笑った。
「そうね、子供の出世にヤキモチを焼くような女に見えるんでしょ
うね、あなたには・・」
「でもね、これだけはわかって欲しいわ。ヒトはね、みんながみん
な、あなたのように理性的でもなければ強くもないの・・・・うぅ
ん、あなたが、その冷静な顔の下でどんなに自分の繊細な心と戦っ
ているかは、私は知っているわ」
何か言いかけようとした博士を遮って、祐子は続けた。
「でもね、あなたの、百分の一の繊細さすら持たない人間にとって
も、それをコントロールできる能力が無ければおんなじなのよ。そ
ういう人達がこの世に居るという事を、心のどこかにとどめておい
てちょうだい」
言い終わると、複雑な表情を浮かべている博士にすっと近づき、
祐子はいきなり抱きついてキスをした。

亜理沙が、おもしろくなさそうにつぶやく。
「ふーん。。。」
美保子が、ころあいを見計らって議論を再開した。
「それで、培養した体液の中のリンパ細胞なんですけど・・・」
「ああ、そうそう、どんな具合?」
「それが・・・だめなんです、体外で培養するとシーラカンスのそ
れにもどっちゃうんです」
「そう・・・・・じゃあ、なんとか、選択補食性の細菌を作らなく
ちゃね」
「で、勝算はあるのかね」
「たぶん可能だと思います、でも・・・」
「でも?」
「ヒドラの体内には、強力な生体電流による磁場の乱れがあります。
あの中でも影響を受けずに正常な繁殖ができる微生物というと・・」
博士と祐子の会話に、亜理沙が割って入った。
「それなら、わたしがいくつか飼育しています!」
ふたりは、意外な表情を浮かべて亜理沙を見た。
「じつは、以前の宇宙実験で・・人工オーロラの実験の時ですけど
・・・」

1993年、亜理沙のもとへ、帯電装置の事故によって影響を受
けたシャトルのカーゴベイに積まれていたコンテナに、奇妙な生物
の残骸が見つかったという報告が入った。
ショウジョウバエの無重量状態での繁殖テストによって、宇宙で
産まれたハエが、地上の重力に適応してちゃんと飛べるかどうかを
確認するための実験であった訳だが、地上に持ち帰った検体の中か
らは、奇妙な細菌の死骸が大量に検出されたのである。
興味を持った亜理沙は、その試料を徹底的に分析し、ついに、そ
れが大腸菌の変性したものである事を突き止めた。さらに、その変
性の原因が人工オーロラ発生装置による空間の帯電である事を確認
したとき、あるひとつの仮説にたどりついた。
それは、生命には無限の適応性があらかじめ与えられており、環
境が激変したときには、その新しい環境に適応する形態の生命がす
みやかに出現するという事である。
おそらくは、地磁気の変換やそれに伴う宇宙線量の変化といった
大規模な環境の変化に対応して、世代交代の激しい微生物から先に
適応異変を引き起こすのだろうと推測された。
さらに、この細菌は、海洋開発「ネプチューン計画」の中核をな
す、大水圧・プラズマ混成核融合炉「プロメティウス」の地上テス
トにおいても、その帯電空間において検出されたのである。

「あの、帯電した環境下において爆発的な繁殖をする細菌に、バチ
ルス・ラジアノイドを取り込む性質を与えてやれば・・・・・」
「それは可能性が高そうだな、よし、その方法でいこう」
「わかりました。明朝、NASAの研究室から空輸させます」
「・・・土田くん・・」
「はい?」
「君は嬉しそうだね」
「はいっ、わたしは博士に賛成です」
亜理沙は、祐子のほうをちらと見ると、静かに、しかし力強く続
けた。
「私たちの存在が未来の人類の踏み台に過ぎないとしても、すこし
も構いません。与えられた条件の中で全力を尽くして生きて行きさ
えすれば、思い残す事は何もありません。それに・・」
「それに?」
「わたしは神に、一歩でも近づきたいです」
「・・そうか・・・・・」
美保子が割って入った。
「わたしも、人類の未来が見たい!」

2日後、帯電装置の中で細菌の品種改良が始められた。
特殊な酵素によりDNAを切り放し、特定の遺伝情報を持つ部分
を、ヴィールス等を利用して組み変えるのである。
当初、バチルスラジアノイドを一種の免疫反応によって破壊する
方法が検討されたが、実験の結果、破壊されたバチルスより解放さ
れた放射性物質のために、細菌は死滅してしまう事が確認された。
あらゆる議論の末に、新しい試みが行われた。それは、バチルス
ラジアノイドのもつ遺伝子改変能力を、無効にしようとする試みで
ある。わかりやすくいうならば、この迷惑なバチルスを、浄化細菌
のような静かな微生物に変えてしまおうという事である。
すなわち、バチルスラジアノイドの遺伝子の中にそっと割り込ん
で、自分自身を違う種類に変えてしまうような微生物を、亜理沙の
持ってきた細菌の中に大量に蓄え、ヒドラの体内で増殖させようと
いう作戦なのだ。

浄化細菌を開発したときのデータが豊富にあるのが幸いして、研
究は順調な滑り出しを見せた。スーパーコンピューターと電子顕微
鏡が遺伝子の情報を解析し、暗号解読にも似た手法によって細菌の
性質を予測していく。
近代科学の産んだ遺伝子操作技術は、われわれを神の領域にまで
引き上げようとしている。
祐子は、不安であった。化学者が分子を組み変えて新しい物質を
作りだし、そしてダイナマイトや爆弾を産みだしたように。あるい
は、物理学者が原子を組み変えて新しいエネルギーを産みだそうと
し、そして原爆や水爆を産みだしたように。いまに、人類は何かと
んでもないものを生み出してしまうのではないだろうか?

いったい、人間が生命を、こんなにも好き勝手にいじりまわして
良いものだろうか?
しかし、と、祐子は思った。われわれ人類をこのような形に作り
上げた存在があるならば、彼らもまた、何の権利があってこのよう
な事をするのだろう。
もちろん、わたしは人類が猿のままでいたほうが良いとは思わな
い。なのに、素直に神に感謝できないのは何故だろう?
そうだ、私たち人類の進化が、私たち自身のちからではなくて、
最初から敷かれていたレールの上を走らされていたという事が、我
慢できないのだ。
そこまで考えたとき、祐子は無性におかしくなって、声を殺して
笑った。なんの事はない、まるで思春期の子供ではないか。親のい
う通りにしてさえいれば苦労せずに生きて行けるものを、妙なプラ
イドを持ったばかりに反抗しては苦労する。
なまじ成長して親の考えが読み取れるばっかりに、われわれは神
の意志とやらに反発を感じてしまうのだ。
それでもなお、強制的に進化させられるのはまっぴらだわ、と、
祐子は思った。わかってはいても受け入れられないものが、人間に
はあるのだ。
同時に、祐子はあの3人をうらやましく思った。彼はともかく、
美保子と亜理沙の精神的なパワァはどうだ! ひょっとして、彼女
達はすでにわたしよりも進化した人類なのかもしれない。
自分一人が古い世界に取り残されたようで、祐子は急に寂しさを
感じた。家庭よりも研究を撰び、この歳になるまで結婚もせずに学
問に打ち込んできた自分の人生が、何か寒々しいものに思えて悲し
くなってきた。

「大谷君、いや、・・・祐子」
はっと顔をあげると彼がいた。
「そんな情けない顔をするなよ」
何もかも見すかされたような気がして、祐子は顔を赤らめた。
「バチルスラジアノイドは駆除される事が決定されたし、それに、
あのヒドラをかたづければ、一生かかっても解けきれないほどのい
ろんな材料が待ち受けているよ」
嬉しそうに子供のような目をして語る彼をみて、祐子はほっとし
た。そう、このひとには研究の事しか眼中にないのだわ。
「あのふたりは、ヒドラの件が片づいたらここに残って研究を続け
る事になったよ」
祐子の中に、知りたいという欲求が不意に芽生えた。
「ねぇ、わたしもここに残っていい?」
ちょっとおどけたしぐさで、博士が答えた。
「もちろんさ、・・・いざゆかん、無限の闇に向かいて・・」
懐かしい言い回しに、祐子は15年前の合い言葉を続けた。

「われらが道は・・・、神へ!!」



ヒドラは、数週間の間隔でその後何度か現れ、フランスの核燃料
再処理工場を襲った後は、再び深海に姿をくらました。吸収した放
射性物質の量と襲撃のインターバルには、一定の関係がある事が確
認された。
しかし、代謝系や放射した量から計算すると、ヒドラの体内には
核物質が大量に蓄積されている事は疑いがない。恐らくは、文明を
決定的に破壊するために、そのうちに大都市を襲い始めるに違いな
いだろう。
世界中のほとんどの核施設を襲い、その核燃料を蓄えたヒドラが
大破壊行動に出るのは、7月の第2週であると予測された。
ドッグ・ファージと命名されたヒドラ破壊細菌は、5月に完成し
て大量生産に成功している。この細菌は、同時に海中にも散布され
て深海のバチルスラジアノイドをも駆逐し、人類を強制的な変異か
ら解放する事が決定された。人類は、造物主の手を離れて、自らの
ちからでゆっくりと進化する道を選ぶのである。首に繋がれた鎖を
断ち切って、新しい道を選ぶのだ。

6月、タイフーン級のミサイル原潜が相次いで遭難した。活動パ
ターンから分析した結果、ヒドラはもう一頭存在する事がほぼ確実
となった。位置は同じくバミューダ海域である。

7月に入った。

国連の指揮する多国籍海軍の原子力潜水艦が、ドッグ・ファージ
を装填した旧式の魚雷を積み込んで、同海域に展開する。洋上では
戦艦が艦砲射撃の態勢をととのえている。空母に積載されているの
は、電子コントロールを持たない旧式の戦闘機、F86セイバーと
F104スター・ファイターである。サイドワインダーミサイルは
追尾装置を外され、ひたすら直進するように調整された。
どれか一発さえ命中すれば、50分で放射能の霧は吐き出せなく
なる。さらに72時間を経過すれば、ヒドラの体組織は細胞分裂時
に異タンパクを合成して自己免疫作用を引き起こし、崩壊する。
人類の存続を賭けた最後の戦いの幕が、いま、静かに引かれよう
としていた。

20世紀最期の年の、7月の第2週であった。




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